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半田裕のスポーツマーケティング考
スポーツマーケティング考 第18話 【SF49ers #16 Joe Montanaとの想い出】
半田裕のスポーツマーケティング考

スポーツマーケティング考 第18話 【SF49ers #16 Joe Montanaとの想い出】

ジョー・モンタナのことはアメリカンフットボールの競技者、関係者そしてNFLのファンも含めて、当時は誰も知らない人はいないレベルの選手だった。

なんといってもそのプレースタイルがビル・ウォルッシュ監督のプレーコールと相まって、いままでのNFLのイメージとは一線を画するインテリジェンスを感じさせる選手としてファンの興味を一身に集めていた。

そんなモンタナの冷静沈着なゲーム展開の中でも1989年に開催された第23回スーパーボウルの第4Qの残り3分20秒からの逆転TDへのドライブはまさに「The Drive]として今でも語り草になっている。

そのモンタナとIMGが契約したのがちょうど時期も同じ頃だったと思う。

アメリカ本社クリーブランドから東京事務所の私のところに、モンタナの契約を日本の企業と交わすように指示が来たんだ。本社のボスはピータージョンソンというアメリカ人で本人もプロでプレーしてたアメフトの選手だった。

ちょうど当時NFLの放映権もIMGが保持していたので、NHKBSやTBS系列、日本TV系列等もシーズンになるとほぼ全試合を放映してくれていたので、彼の知名度は世間一般的にそれなりのものはあったものの、たとえば一般消費者のレベルで認知度がどれぐらいあったかというとそれほどではなかったのが正直なところだった。

という状況下でどうやって売ろうかということになった。

当時、たまたま日本社会人アメリカンフットボール協会の常務理事をボランティアスタッフとしてやっていて、結構社会人フットボールの隆盛期で巷には山のように社会人のチームが存在していた。レナウン、オンワード、松下電工、NEC、三菱銀行、三和銀行、住友銀行、アサヒビール、などなど、その中でも特に三菱電機という会社に可能性を見い出した。

理由は

①すでに三菱スーパーセレクションという音楽イベントでIMGとの間で【カルメン】というオペラに特別協賛してもらった経緯もあり、次はスポーツかなという機運があった。

②自社内にアメリカンフットボールの社会人チームがあった

③アメリカ国内でNFLのスタジアムの多くの大型ビジョンが三菱電機のダイアモンドビジョンだったこと、それを強烈に営業されたのが東大のアメフト部のOBのかただった事。

④宣伝部が大型映像機器のCMキャラクターを探していた。

などなどの理由が重なり、三菱電機とモンタナの契約が机上に上ったわけだ。

紆余曲折はあったものの、話は結構トントン拍子で進み、さあどうやって料理するかという話になったわけです。単純にCM契約するのも面白くないので、色々と知恵を絞ってこうしました。ここには三菱電機の宣伝部、アドメルコの方々、電通営業、電通のクリエイティブの方々そして日本社会人アメリカンフットボールの協会の幹部の方々、いろんな人たちの協力があり完成した構図になります。

①基本は三菱電機の映像機器とのCM契約

②社会人アメフトのパールボウル(実業団チームの日本一を決定する試合)への協賛

③パールボウルのイメージキャラクターとしての使用

④パールボウルの時期にPRを兼ねて来日

⑤三菱電機のリクルートおよび社内向け企業広告への出演

こんな感じす。

確か1991年と1992年の2年契約だったと記憶しています。

そんな感じで始まった、モンタネとの関係ですが、その頃彼は故障した腰の関係で古巣の49nersからチーフスへの移籍が重なった時期で、プロのプレーヤーとしては最後のタイミングを迎えていた。しかし私の強運は東京ドームが興行しているNFLアメリカンボウルに1994年にチーフスのQBとして再来日した事もあり、この時期彼も大好きな日本に3度も来日したことになる。

来日時には昼間はしっかりとボディガードなんかをつけていたけれど、夜はIMGのスタッフ5名と彼と6人で六本木や赤坂で遊び歩いていました。IMGのマークが小さいオープンカーを持っていて、それに6人が乗って移動したりしました。今でも六本木にある【アウトライン】というお店にはその時の写真が店内に飾ってあります。

本当に気さくななにも気取らない素晴らしいナイスガイでしたね。

私が一緒に過ごしたトップアスリートの中でも秀逸です。

その後、私がアディダスに仕事が変わった時、ノートルダム大学(当時アディダスがサプライヤーだった)の関係もあり、彼がレジェンドプレーヤーとしてアディダスの契約選手だったり、アディダスがNFLのグラスルーツ活動をサポートしていて、その時モンタナがNFLの広報の仕事をしていたり、なんとなく接点があったものの長い事会ってないです。 ノートルダムジャパンボウルに来日する事が仮決定したとき、協会の関係で私がアテンドさせてもらうことになっていて15年ぶりの再開を熱望していたけれど事情があって彼の来日はならなかったのです。残念!!

私の中では霧のキャンドルスティックパークでビル・ウォルッシュのプレーコールをフィールド上で完璧にこなしてゆく彼の雄姿がいつまでも忘れられない記憶で残っています。

彼こそNFLレジェンドと呼んでふさわしい偉大なプレーヤーだと思う。